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ハクシュ/その8
よく見るはずなのに、見慣れない看板があった。
○○家
の文字だけ目立つ、黒ふちの看板。
よく見かける葬儀屋のものでも、互助会のものでもない。
「これ教会だ」
「あったか? そんなもの」
駅へ向う途中、確かにその名前の教会はあったし、同じ名前の看板がかけられていた。
とおりに向かって植えてある桜がぽつぽつと花を開き始め、玄関を掃除している女性の黒い服と対比して、妙にさびしそうに見えた。
「あったんだ」
「そりゃあるだろ」
じゃなきゃ順路の意味がない。
そんなことを言いながら、綾那は先に行ってしまった。
教会の敷地を通り過ぎてしまってから、ようやく立ち止まって振り返った。
「置いてくぞ」
「綾那さん冷たい」
「知り合いか?」
「ぜんぜん知らない人」
「先に行く」
「待って待って」
綾那は間違いなく置いて行く。待つようなことは絶対ない。
勝手に立ち止まっていたくせに、順は慌てて走ってきた。
それでもジャケットの裾をつかんだ順の手を振り払ったりはしない。ポケットに手を突っ込んだまま立ち止まりもしないけれど、綾那は最近少しやさしい。
「桜」
「ああ、咲いてたな」
「情緒がない」
「何見てたんだ」
はぐらかしたかったのはバレたらしい。
確かに、桜が見たくて立ち止まったわけではない。
「カトリックかーって」
ごまかしても仕方がないので正直に答えたら、
「は?」
心底呆れた顔で綾那は睨んできた。
「敷居またぐこともないだろうなぁって」
「お前んちプロテスタントか」
「そういう間違った宗教認識はどうかと思う」
「知るか」
学校で習う程度の知識ならそれくらいで十分だ。
「祈る神もないヤツに縁なんかないでしょ」
「信じるだけで救われるならいくらだって信じるけど」
「向こうが願い下げるわ」
「ごもっとも」
綾那のジャケットの裾をつかんでいた順の手が、袖をつかむ。
「自分の都合の関係ない神様のいうことに、いちいち振り回されてどうする」
「不安にならない?」
「なるもならんも、どうせ行くのは決まってる」
袖を振り払って順の尋ねる気を逸らすと、その手を握ったまま綾那はポケットに手をねじこんだ。
「ちょっと考えればわからない?
宗教でわざわざ禁止したってことは、そうしなくちゃならなかったからでしょ」
「わかりません」
「正常とされるものを大きく凌駕すれば脅威になる」
「屁理屈だよ」
「だったら勝手に怯えてろ」
「…それって心配してくれてる?」
「夕歩のな。淫魔の邪気にさらされて地獄に落ちるなんて大迷惑だ」
「さようで」
気付いたら、ずいぶん早足になっていた。
利き手を中途半端な高さに持っていかれたままで、歩きにくい。
「そんなに怖いなら、私を殺ればいい。
誰か手にかければ、嫌でも先に行けるだろ。」
順が不服を口にしようとしたら、突然さえぎられた。
「わけわかんない」
「2人だったら、門番くらい蹴散らせるだろ」
「そのままさまようことになるかもよ?」
「地獄に堕ちるよりはマシだろ」
なるほど。
思わず納得してしまったが、本当かどうかはわからない。
「そんなもんかな」
「知るか。
そんなに言うならお前ごと突っ返してやるから、地獄の果てまで姫をお守りしてろ」
「おぉ、なるほど」
それなら、いい。
「どーせだから、一緒に行こうよ」
「無理。
…私には、資格がない」
順は立ち止まった。
手を離さなかったから、ポケットから握ったままの手が後ろに伸びて綾那はバランスを崩した。
「だから、いちいち立ち止まるな!」
振り返って綾那は腕を振ったが、順は手を離さなかった。
すっと、順は息を吸った。
教会はもう、見えない。
「あたしたちの都合なんか関係ない神様の言うことに、いちいち振り回されないでよ」
思いのほか大きな声で、綾那も目を丸くしていた。
我に返るまでに、しばらくかかった。
「それ、さっき私が言った」
「そうだよ、だから」
もう、離せ。
綾那の抗議は無視して、順は歩き出した。
「訳がわからん」
諦めたのか、綾那はおとなしくついてくる。
「アンタとだったら、どこだろうと暴れ甲斐はありそうだよね」
「お前なんかと心中はごめんこうむる」
「あー、ないない。絶対ない」
駅が間近になったころ、順の手が離れた。
二歩ばかり前に出て、振り返った順は笑っていた。
「お家のお役目が終わるまでは、死んでも生きてやる」
「せいぜい励め、お庭番」
ひらひらと振られていた順の手を叩き落とすと、綾那は駅舎に向けて足を速めた。