逮捕部屋
百の一。
いつもより、一時間ほど早く美幸が出勤するのはそれほど珍しいことではなかった。たとえば、もっぱらその相手は中嶋であったがバイクの整備を頼まれていたり、ミニパトの整備をするためだったり、下手をすると夜明け近くに帰ってきて、日が昇るころにはでかけていたりと、生活時間はかなり不規則だった。 けれども、同居人に思い当たる理由もなく一週間以上美幸が早く出かけ続けるということは、今までなかった。 二人で出勤などというのは同居しはじめのころだけで今ではほとんど毎日夏実が置いてきぼりをくっているのだが、季節もよくなってか自主的にバイク通勤を始めただけあって夏実も比較的早起きにはなっていた。だからこそかろうじて美幸がでかける場に遭遇することができたのだが 「あれ、今日も」 「うん。」 それだけの会話が毎朝繰り返されると、さすがに夏実も訝しく思い始めた。行き先も言わず、署に顔を出す時間はすこし早めなだけで特に変わらず。はてさて早朝に逢引かなどと邪推してたものの出勤後に会う中嶋も美幸もいつもと寸分変わった様子もなく、さらに突っ込んでみれば中嶋は美幸が早朝にでかけていることなどまったく知りもしなかった。おまけに「どこか、気に入りのパーツ屋でも見つけたんじゃないか」ととりあう様子もない。 夏実自身心当たりがないわけではないからそれはそれで納得がいかない理由ではなかったけれど、もしもそうであるなら美幸の帰宅時間が変わらないことの方が納得いかなかった。そうまでして確かめに行くものを、ほうっておくとはとても思えない。勤務時間の終了と同時に飛び出していって、閉店時間までいりびたっていることだろう。 そうしていくつか心当たりを当たっているうちに誰かさんのおかげで尾ひれがついて、美幸に新しい男ができたとか、毎朝人目を忍んで逢引してるらしいということに落ち着いてしまった。当然中嶋は先輩連中に覚えもないことをあれこれ問いただされた挙句、つるしあげられるはめになった。 「なんで、そうなるのよ。」 美幸の早朝出勤が始まってから半月ほどたった昼休み。屋上の入り口の屋根の上で、夏実は頭を抱えていた。 「はぁ?」 休憩時間、葵に誘われて公園で弁当をひろげていた美幸は間の抜けた声をあげた。 「じゃぁ、やっぱり違うんですね」 「違うも何も。誰、そんなこと言い出し…」 尋ねるより先に思い当たって、美幸がやれやれとため息をつく。 「夏実さんは、誰か知らないかとしか、言ってません。」 あわてて訂正する葵を手で制して、美幸は顔を上げる。 「一人しかいないじゃない。そんな方向に話もってちゃう人。」 「それは、そうですけど」 そこで二人が想像した人間はただ一人。噂の根源はほぼここと交通課の人間は誰一人として疑わない人物がいる。 「頼子め」 「それで、いったい、何があるんですか」 つぶやいた美幸の表情をとりあえず見なかったことにして、葵はことの次第を質すことにした。 「おばあちゃんがね。」 「は?」 「おばあちゃんと、あったのよ」 「はぁ。」 思いつきもしなかった言葉にについていけず、とりあえず葵は聞くに専念した。 ことの次第はざっとこうだ。 8月に入って間もないころ、道路工事にあわせて出勤時間の抜け道を探しているところで一人の老人に遭遇した。彼女は一人交差点で立っていて、どうやら同乗させてくれる車を探しているようだった。それで美幸は彼女を乗せて、彼女がいう先へ送り届け出勤した。翌日、美幸は彼女が気になって同じ時間に出かけてみるとやはり同じ場所に彼女は立っていた。まさかと思いその翌日もでかけてみると案の定彼女はそこにいて、それから毎日その通りへ同じ時間に迎えに行き、同じ場所へ送り届けているらしい。 「待ちぼうけくってるみたい。」 「そうなんですか。」 そういって美幸が胸ポケットから取り出した古びた写真を葵は受け取った。セピア色ですこしすすけたそれには、軍服で身を包んだ青年とその斜め前で椅子に腰掛けた女性が写っていた。 裏に、日付が入っていた。昭和二十年ニ月八日。朗、とあるのは男性の名前だろう。 「くれちゃったのよ。それ。悪いでしょう。返すに返せなくて。」 「それで。でも、なんで黙ってたんですか。」 「黙ってたも何も。」 葵が返した写真を制服の胸ポケットにいれなおしながら、美幸は言葉を切った。 「あたしの知らないうちになんでそんなことになってるのよ」 苛立ちを誤魔化すように残りの弁当を食べ始めた美幸を見ながら、どうしてあれだけの騒ぎが起きていることに気づかずにいられるのかということを、葵は尋ねないことにした。 このひと月の習慣どおり、美幸は老人を迎えに行った。その日は車のとおりがなく、いつもより早く着いてしまった。交差点を通り過ぎてから車を止めて、時計を見る。7時45分。いつもここへ来ていたのが50分頃。多少、手段を選ぶことになるが8時までなら待てる。エンジンを切って、車を降りた。 美幸は交差点へ向かった。住宅街からははずれているとはいえ、不自然な静寂があたりを包んでいた。 「こんなに静かだったかな。」 不安を誤魔化すように、つぶやいてみる。あたりを見回すが、平日の出勤時間だろうに人通りがない。夏休みもあけてしまっていたし、小学生や駅に向かうサラリーマンなどを見かけていたような気がする。 交差点をわたり、しばらく来た道を戻る。やはり彼女はいないらしいので諦めてふりかえると年頃が自分と変わらないくらいの男女が連れ立って道を渡っていくのが見えた。 「会えたのかな。」 多分、会うことができたのだろうと思うことにして美幸は車に戻った。バックミラーには先ほどの二人が長い間映っていた。交差点のところで立ち止まって、何か楽しげに話しこんでいるようだった。 そうして、時間ギリギリまで彼女をまって、美幸は墨東署に向かうべくエンジンをかけた。二人がヨタハチが走り去るまで見送っていたのだが、腕時計で秒針まで確認しながら走り出した美幸がそれに気づくはずはなかった。 珍しく美幸が交通課に駆け込むと、片眉だけあげて、課長が美幸を見た。地下の更衣室から交通課へダッシュで駆け込むなどという芸当はおそらくその日まで夏実の専売特許だったろう。肩で息をしながら、自分の席にたどりつき、椅子をひくと大きく息をついた。体を預けるように椅子にふかぶかと座り込み、もう一度大きくため息をつく。とりあえず、5分前には席につけた。 「どうか、したんですか?」 しばらくすると、葵がガラスコップに水をいれて持ってきてくれた。 「こなかった。」 ありがとう、と受け取って、一息に飲み干す。 「待ちぼうけですか。」 「そういうこと。」 息をつくと同時にドアが勢いよく開いて、夏実が飛び込んできた。 「間に合ったぁっ」 「始業5分前」 どいつもこいつも、といった様子で課長がつぶやいたのを、聞いてか聞かずか夏実がすかさず声をあげた。 「新聞見たよ、ご苦労サマー」 「お前らがのんきに寝てる間にな」 そう言って、部屋奥の男性陣が夏実に新聞を投げつけた。 「あ、今朝、読んでない」 夏実が受け取った新聞を美幸が横からかすめとり、地方面を開く。 左下に、さほど大きくないが、管轄の交差点での事故が載っていた。早朝、道を渡っているところを確認せずに右折してきた自動車にはねられるという、ありがちといえば言葉は悪いが、めずらしくない事故だった。 「え、あれ?」 交差点の名前に、心当たりがあった。 「ここ、今朝、事故処理してました?」 美幸の質問に彼らは目を丸くする。 「何言ってんだよ、まだ、血のあと残ってるぜー。あぁ、でも洗浄終わってるかな。あそこ、子供多いしなー」 「え、だって…」 「どったの?顔、白いよ。」 ひらひらと美幸の目の前で夏実が手のひらをゆらす。 「誰にも、会わなかったのに」 美幸がつぶやくのを、わけがわからないといった風に夏実が肩を上げてみせ、葵がさぁ、と首をふる。美幸が恐々と新聞に目を戻すと、葵と夏実、それからいつのまに駆けつけたか頼子が一緒に新聞を覗き込んだ。 安辺 朗(81) 被害者の名前を見ると同時に美幸の脳裏に今朝の二人の姿が浮かんだ。慌ててポケットの写真を取り出し、それを見るなり悲鳴をあげた。驚いてあとずさった頼子が後ろの机にぶつかってバランスを崩し、いきなり美幸にしがみつかれた夏実は椅子から落ちるのをこらえながらばつが悪そうに中嶋をみやる。「なんで、俺をみるの」いいながら、中嶋はおいやるように手を払い、いきなりのことに課長は壁際まで後ずさっていた。 「なに、どうしたの。」 体勢だけ整えて、夏実が美幸に尋ねたが、しばらく美幸の悲鳴が止むことはないようだった。足元に放り出された写真を頼子が拾い上げ、写真を怖いもの見たさの女子職員一同が覗き込んだ。なんの変哲もない記念写真に一同首を傾げる。 「あら、この方…」 葵が新聞を拾い上げ、問題の記事を見やる。そうして、ふと、気づいて頼子の持つ写真を見た。 「同じお名前なんですねぇ。」 ぴたりと美幸の悲鳴が止み、全員の動きが止まった。 「ねぇ、美幸。」 頼子がすわり込んだまま、まさかというように、美幸を見上げた。 「今朝、ここに行ったりなんかしないよね」 美幸はぴくりとも動かず、交通課の空気はますます冷たくなっていく。 「しないよね。そぉんなお約束」 いや、しかし。まさか。 おのおのの中に、共通の思いが駆け巡る。 「誰も、いなかったのに…」 そこに集まった全員がいっせいに後ずさった。水を打ったように静まり返った次の瞬間、張り詰めていた糸が切れたように交通課はパニックに陥った。 「こりゃぁ、仕事にならんな」 窓の外、裏庭にたたずむ老夫婦をブラインド越しに見下ろしながら、課長は一つ、ため息をついた。 <2003/02/23 23:59:50>