逮捕部屋

百の九。


「あ…?」

美幸がS800の速度を落とした。

「どうしたの?」

首をかしげながら夏実が尋ねた時には、S800は路肩に止まっていた。

「大丈夫ですかっ」

美幸が声を上げ、運転席から駆け出していく。
窓から目線を戻して見れば、路上に人が倒れている。夏実も慌てて助手席を降りた。

50歳前後に見える女性は、少し太り気味で、膝から血を流していた。
そのそばに自転車が倒れている。
どうやらバランスを崩したらしい。
美幸が止血をしている間に夏実は自転車を起こして、スタンドを立てた。
大きな怪我はしていなかったけれど、ずいぶん動揺していたようだ。美幸の手当てを受けている間も何も話さなかった。

「大したことなくてよかったね、おばちゃん」

夏実が声をかけると、夏実に顔を向けて静かに頷いた。

「自転車、乗れる? 送っていこうか?」

不思議そうに美幸が見上げるところに

「おばちゃん送ってあげてよ、あたしコレで追っかけるから」

そう言って、自転車のサドルを軽く叩いた。

「自転車も見ようか?」

美幸も立ち上がり、ママチャリのそばによる。ハンドルも歪んでいないし、タイヤも無事。特に手を加える必要はないことを確かめた。

「籠がつぶれちゃったけど、大丈夫ね」
「んじゃ、決まり。おばちゃん、車に乗ってよ。家、教えて」

やはり女性は黙ったまま、すっと手を上げた。
指差された方を見ると、田んぼを二つはさんだ向こうに、少し古びた農家が見えた。

「え、あそこ?」

女性が頷くのを見、気まずそうに夏実は頭をかいた。

「どーする?」

女性を覗き込んで、夏実が尋ねるとやはり黙ったまま立ち上がった。
自転車のスタンドをはずして、二人にゆっくりと頭を下げる。

「家に帰ったらきちんと消毒してくださいね」

美幸の言葉に頷いて、再び頭を下げると、自転車を引いて女性は歩き出した。
家の門をくぐるのを確かめて、二人は車に戻った。

夕方。
峠のドライブを楽しんでから、渋滞を避けて整備された農道を帰る途中だった。
昼間、女性を助けた道で夏実が思い出して言った。

「おばちゃん、大丈夫だったかな。」
「そんなに傷も深くなかったし、おうちがすぐだったから大丈夫でしょ」
「だよね」

整備された田んぼがどこまでも続いている。
通り過ぎた廃屋の庭に、壊れた自転車が立てかけられていた。

<2009.08.21>