逮捕部屋

百の八。

 おかしな夢を見た、と夏実は言った。
 周りは火の海で、音は何もない。業火の中、一人取り残されている。
 時々、柱が崩れ落ちるのを見るが、辺りに人の気配はない。あとは燃え尽きるだけという所だ。
 熱を感じるわけでもない。
 ただ、声を上げて泣くことも出来ないほど、胸がつかえている。
 そうして、その思いを抱えたまま、目が覚める。
 悲しいとも、寂しいとも、違う。どちらかといえば、無念に近い。
 似たような経験をしたという覚えもないし、そんな映画を見たようなこともないはずだ。
「なんだろうね」
 人事のように首をかしげていたが、半月もすると、何も言わなくなった。

 話題に上らなくなって一週間ほどした日のことだ。
 勤務後、葵のところへ夏実が訪ねてきた。
 拗ねた子供のような納得のいかない顔で、リビングに通されてもしばらく無言だった。
「なにか、用があってみえたんでしょう」
 正面に座った葵を上目遣いに睨みながら、促されてようやく口を開き
「よくわかんないけど、すごい剣幕で葵ちゃんのトコへ行けって怒鳴られた」
 ベルトに止めてあった、携帯電話をとって見せた。
 心当たりはあるようで、その相手が誰かを確かめはしなかった。
「私も今日、見えなかったらお呼びしようと思ってました。」
「へ?」
 拍子抜けしている夏実を置いて、何枚かの紙とサインペンを持ってくると「目隠しでもしておきましょうか」と言いながら本当にそうしてしまった。
「驚くかもしれませんが、無理な力は入れないでいてあげてくださいね」
 訳がわからないままペンを持たされて、居を正された途端、夏実の頬が引き攣った。
 強引な力で肘を引き上げられ、本人の意思とは関係なく紙の上にペンを走らせていく。
 指先の感覚がなくなるわけではないようで、夏実の方は、ペンの向きを固定させることに必死だった。
 瞬く間に一枚が埋まり、紙を取り替えるために葵がその腕を引き上げると、当の夏実を取り残したまま振り払うように抵抗する。
 それを繰り返し二枚半の白紙を埋めて、最後に一行の署名を入れると夏実は解放された。
 ペンを握らされていなかった手で目隠しを毟り取ると、女性の筆で手紙らしきものが目に飛び込んできた。明らかに自分の字でないことは、書かされた本人にもわかる。
 まだ、指先はじんわりとしびれている。
「何、これ」
 見ての通りです。
 それを丁寧に折りたたんで脇に寄せ、葵は続けた。
「まだ、夢は見てたんでしょう」
「うん。美幸が怖がるから、言うのやめたけど。え、何でわかるの?」
「ここまで、切羽詰ってましたから。もう、手当たり次第という感じでしたよ」
 そう言って、葵は折りたたまれた手紙を指差した。
「あー、それで怒鳴られたんだ」
「そうでしょうね。たまたま、夏実さんが近かっただけだと思うんですが。すぐに相談してくれればよかったんですよ」
「話はしたじゃん」
「その、あとです。」
「え、何?」
「まだ、何かあったでしょう」
「…何で、わかるの?」
「その人の、言葉ですよ」
 つい、と夏実の目が折りたたまれた手紙に向けられた。
 その表情にはっきりと後悔が浮かんだ。
「あたしじゃなきゃ、よかったのにね」
「そんなことは、ないですよ。」
「そうかなぁ。」
 納得のいかない様子だったが、葵に促されて夏実は続けた。
「ちょっとだけ、変わったんだ。人影が、見えるようになった。大人と、子供と、二人。それしかわからない。
 でも、そんなこと言い出したらただでさえ怖がらせてるのに、余計怖がらせるだけじゃん。
 それに。」
一旦言葉を切り、もう一度手紙を見つめて、
「軽はずみに誰かに話しちゃいけない気がしたんだ。だから、黙ってた。」
 ごめんなさいとどちらに向けるともなく夏実は頭を下げた。
「復員してくる旦那様に手紙を残したかったようです。それはご自身と一緒に焼けてしまっていたようですが、どうしても伝えたかったんでしょう」
「じゃぁ、旦那さん、生きてんだ」
「そういうことでしょうね。次の非番でも間に合うようですから、誰かに言付けられていたものを代筆したということにしておきましょう。」 
「悪いこと、しちゃったな」
「そんなことは、ないですよ」
 お茶を入れましょうか。そう、席を立った葵を見送り、もう一度その手紙に向き直った。
「気付いてあげられなくて、ごめんなさい」
 きっと生きて戻ると信じた人へ、残したかった手紙。たとえ自分がそこから去ることになったとしても、伝えたかった言葉。けれども、それは叶わなかった。
 自分の命が途切れることが、その言葉が届かないことが、あれほどの切なさになって伝わってきたのだろうか。
 紅茶を持って葵が戻ってくるのを見上げ、再び手紙に目を戻した。
 入れたての紅茶を戴いて、ふう、と息を吐いて。
「もうちょっと、怖いもんだと思ってた」
「うらみがありませんからね。怖がらせる必要はないでしょう」
「そっか」
「でも、今日、来てなかったら、一生うらまれたかもしれませんよ」
「それはやだなー。怒鳴られ損にはならなかったね」
 ごちそうさま。ありがとう
 飲み頃のお茶を飲み干して、席を立った。
「気を、つけてくださいね」
「うん、ありがと」
 ポケットを探りキーを取り出しながら、玄関まで送られて部屋を出た。
「気を、つけてくださいね」
「わかってるよ。じゃ、またねー」
 エレベーターが階下にあるのを見て、夏実は階段に足を向けた。
 地下へ辿り着き駐車場の扉を開けた途端、目に人影が飛び込んできた。
 その有様に気付いた時、へたりと座り込んでしまっていた。
 焼け爛れ皮膚の剥がれた体に燃え残った布をところどころ貼り付けただけの状態で、頭を下げてくれたような気がした。
 その姿を確かめようとも思ったけれど、一瞬で姿を消してしまった。
 おそらくあの手紙を書かせた本人だろう。それはわかった。
 何度も深呼吸してなんとか気を落ち着けて、
「御礼言ってくれるのはありがたいけど、その、驚かすのはなし、ね」
呟いては見たものの、どだい無理な話である。

<2004/05/31>